さらば、友よ
「お花見」の季節がやってきましたね。
二十数年生きてきたけれど、花見らしい花見よりも、花見と称し花を見ない飲み会に参加することが多かったです。
社会人になって数年。今年はそんな飲み会もなさそうです。
何故なら、友と呼んでいた人たちとさよならしようとしているので。
…
……いや、突然すぎる。突然すぎるな。
しかも前のエントリーで「暗い話題は出さない」系のこと言っといて暗そうな話題だぞ!
まあでも卒業シーズンだし、そういう意味ではこんな話題もいいのかな。
ちょっとダークな記事になるけど許してね。
さよならするといっても明確な別れがあるというより、フェードアウトを選んだということなんだけれども。
数年前のわたしが見たら、「ようやくか」というコメントをいただくだろうことを綴っていこうと思う。
*
大学時代、わたしが学びたかった分野は専攻している科の小さな研究室、そこしかなかった。
そこには天真爛漫な女の子のニコ、おうちも自身の性格も女王さまなお嬢、女の子より女の子らしいのに下半身と脳が直結してる男子のチカがいて、卒業までの3年弱を家族よりも長い時間この3人と過ごすことになるのですが。
結果を言えば、わたしの我慢が限界に達した。
これに尽きる。
人間関係というものは、どちらかが譲り合ったり我を押したりして、力が均等になることは殆どないように思う。
理想を言えば互いが互いを尊重し理解し…となのだろうけれど、人間ってそれぞれに思いや考えがあるわけで。
その研究室で出会った友人たちはみんな、譲り合うよりも我を押す方のメンバーだった。
大学時代は小さな研究室で荒波を極力立てず、卒業までの数年間だけ我慢していればそれでいいと思っていたのだけれど
(それでもコイツらと仲良くしなければもっと穏便で豊かな学生生活を送れたのではと思えるほど嫌な出来事が何度もあったし小爆発も何度かした)、
卒業してからのここ数年もその「我慢する」馴れ合いが続いてしまった。
しまった という言い方なのは、傷ついたり嫌な出来事があっても、それを我慢して笑いや場を作りつつ、媚び売っても仕方がないのに嫌われる勇気もなかったというか、相手に愛なのか情からなのかわからないが、面倒を見てしまっていたわたしがいたからだ。
だが、その我慢がとうとう爆発した。
決定打になったのは、彼女たちのマウンティングと何気ない一言でわたしの大事な人を傷つけたことだった。
これまでのニコ・お嬢・チカに対してもちろん色々思うことはあったんだけれども、「この子はこういうタイプだよね」という天使のように寛容だが悪魔のように我慢の幅を広げることになる言葉で自分を無理やり納得させていた。
人は他人を傷つけることと自分が傷つくことには案外気がつかないもので、要はわたしもそう思うことで自分を我慢=傷つけていたのだ。
だが、自分が愛していたり大事だと思っているものに対して、自分を傷つけるように他人から傷つけられると、とんでもなく悲しく、怒りが込み上げてくるものなのだと知った。
悲しいことに、わたし自身実際に傷つけられて気がつかされた。
わたしも止める間も無く、「こういうタイプ」では済まされない過ちを彼女たちは犯したのだった。
大事な人を傷つけられた結果、わたしはこれまでの数年間に彼女(ら)から傷つけられたと明確にわかっていたことから、実は傷ついていたのかと気がついたことまで、ほとんど思い出すことになる。
そして幸福や安心感などよりも、わたし自身を抑えて=傷つけていたことが多かったことも知ることになった。
なんだよ、社会人になって、小さな研究室から脱して「みんなのため」と思って自分が我慢しなくたって距離を置ける位置にいるじゃないか。
自由に選択できる立場にいるのに、何故わざわざ傷つく方にいっていたのか。
そんな簡単なことも見失っていた。
幸いなことに、わたしはひとりで行動することが全く苦ではなく、むしろ他人に気を遣わず、自分で立てた計画を計画通りに行動することに快感を覚えるタイプで、かつ自分のしたいことや好きなことを知っているから、そんなマウンティングまみれの渦にいるよりよっぽど幸福になれることを知っている。
きっと数年前のわたしには出来なかったことだ。
自分で自分を救えるこの幸せを。
さて、色んなことを知り学んだわたしは現在彼女たちから離れようと行動に移している。
これまで一ヶ月に一度は必ず会っていたのだが、彼女らにわたしの誕生日を祝ってほしくなくてお祝いもキャンセルするなどし、もう三ヶ月ほど会っていない。
なんと心地のいいことか。これで向こうから連絡が来なければの話であるが。
何を察したのか、かなりの頻度で会おうと誘いが来る。そして共通の友人からは、ほどよい距離感で仲良くいることを望まれた。
わたしはまた気づくのであった。
依存されてんな、ということに。
自分で自分のことすら満たせないのか。
というより、欠乏感を持っていることや依存していることすら気づいていないのだろう。
何とも虚しいことだが、もうわたしには彼女たちに教えようとする気力すら湧かない。
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先ほど他のインターネッツの海を泳いでいたときに、たまたま目に留まった文がある。
“ぽたぽたとしずくが落ちて、やがてコップいっぱいになり、最後の一滴であふれだすみたいに、物事が変わるのはつねに最後の最後の瞬間が来たときなのです。”
- 上橋菜穂子著『物語ること、生きること』より
まさしくこれだ、と思った。
もうわたしの彼女らへのコップは、大学卒業時にはすでにギリギリだったのだ。コップの水は一気に溢れ、彼女らと語らい過ごした座卓からは、すでに滴り落ちていた。
*
ニコには先日止むを得ず会うことになったのだが、そのときに彼女から純粋無垢な笑顔でこう誘われた。
「今年こそ、桜を見ながら花見をしよう。」
その言葉を聞いて、曖昧に笑うだけだった。
そうだね、や、いいね、を言うわたしはもうどこにもいない。
わたしの住む地域では、今日一気に桜が咲き始めた。
明確な線引きはまだ出来ていないけれどいずれ通る道にはなるだろうし、桜が咲き始めたらこの記事を何となく思い出すことになるのだろうか。
出会いと別れの季節。しばらくマウンティングの渦に顔を突っ込みたくないので女友達自体欲しくないのだが、いずれ互いに尊重できる友と出会い、桜を見ながら笑い合う夜がきたらいいなと、思いをはせる。